三州瓦

日本一の生産量を誇る三州瓦。この「三州」とは愛知県東部を占める旧国名、三河のこと。三州瓦は、名古屋に近い西三河地方で作られてきた粘土瓦を指します。現在の製造業者は約70社、うち約7割が高浜市に集まっています。

中世から続く伝統的な燻し瓦、現在の主流である陶器瓦、熟練の職人が手がける鬼瓦。さまざまな顔を持つ三州瓦は、どのような歴史を辿り、今どのようになっているのでしょうか。

三州瓦のあゆみ〜良質な粘土に恵まれた地

瓦 三州瓦の起源や草創期の変遷は、資料が少なくはっきりしていません。元祖とされているのは、寛正元年(1460)に操業開始という記録が残されている、安城市桜井地区の藤井家。瓦作りは内陸部の桜井でまず始まり、江戸時代になって海に近い高浜市や碧南市の方面へと広がっていったとされています。

この地域で瓦製造が盛んになったのは、主に二つの理由が挙げられます。ひとつは、原料となる良質の粘土が浅い地層から大量に採掘されたこと。西三河の粘土は耐火性と強度に優れており、瓦の原料として最適だったのです。今でも三州瓦は、西三河産の粘土で作られています。

もうひとつは、古くから舟運が盛んだったこと。矢作川河口や三河湾・衣浦湾岸の湊から出帆した船は、三州瓦を始めとするさまざまな物資を江戸へと運びました。江戸幕府が防火のため瓦屋根の建築を奨励したことから瓦の需要が増加、それとともに産地の生産力もアップ、次第に名声も得てゆきました。

明治以降も、日清・日露戦争後の好景気関東大震災後の復旧に伴って、瓦の生産量を伸ばしました。また、品質の向上や製品の多様化にも積極的に取り組まれるようになり、確固たる地位を築いてゆきます。

西三河の主力製品はもちろん瓦ですが、瓦以外の製品も作られていました。江戸時代後期からはコンロや七輪、火鉢などの焼成器具が、明治時代からは土管やレンガなども盛んになってゆきます。輸送方法も船から鉄道、トラックへと変わり、流通範囲は全国へと広がりました。時代の流れで現在はほぼ瓦だけとなりましたが、愛知県では常滑、瀬戸と並ぶ窯業の一大中心地だったのです。

三州瓦の三本柱〜燻し瓦と陶器瓦、そして鬼瓦

それまでの民家では草葺や板葺が普通であったがひとくちに三州瓦といっても、大きく二種類に分けられます。燻し瓦と陶器瓦です。簡単にいうと、燻し瓦とは焼成したあと「蒸し焼き(燻し)」の工程を経た瓦で、独特の銀色が特徴。いっぽう陶器瓦は釉薬を掛けて高温で焼いた瓦で、色のバリエーションは豊富です。

日本では古来、瓦といえば燻し瓦が一般的でした。陶器瓦も古くからありましたが、使われる例は極めてまれ。瓦製造の中心地として製品の多様化を目指した西三河では、明治時代から陶器瓦や釉薬の研究が始まっていましたが、需要のない時期が長く続いていました。

しかし、戦後復興期から高度成長期へと突入する頃になると、消費者ニーズの変化から色のついた瓦が求められるようになります。陶器瓦の需要は年を追って増加し、燻し瓦から陶器瓦へ転換する製造者も続出。数年後には生産量を追い抜き、現在では圧倒的に陶器瓦の生産量が燻し瓦を上回っています。もちろん、社寺建築をはじめとして燻し瓦の人気も根強いのですが。  焼成方法が異なることもあって、三州瓦のメーカーは基本的にどちらかの専業です(両方を製造しているのは10軒ほど)。生産者組合もそれぞれにあり、燻し瓦が「三州瓦工業協同組合」、陶器瓦が「愛知県陶器瓦工業組合」を組織しています。

三州瓦には、燻し瓦、陶器瓦と並ぶもう一つの核があります。それは鬼瓦です。

鬼瓦とは、屋根の大棟や降り棟に乗せられた鬼面の瓦のこと。鬼面だけでなく鯱や鴟尾(しび)なども鬼瓦の一種です。「鬼師」と呼ばれる職人は、鍾馗や獅子などの棟飾り、丸軒瓦の家紋や寺紋なども手掛けます。要するに、平瓦以外の立体的な造形物はすべて「鬼瓦」の範疇に含まれるのです。

瓦職人

大量生産が必須の平瓦は、工程の大部分がオートメーション化されています。いっぽう鬼板師の仕事は、図面書きから成型まで全てが手作業。地元では「瓦屋さん」「鬼屋さん」の呼び分けがあるように、こちらも完全に専業となっています。歴史的に燻し瓦と密接な関係にある鬼瓦の製造者は、燻し瓦系の「三州瓦工業協同組合」に加入していますが、鬼瓦専業者だけで別に「三州鬼瓦製造組合」および「三州鬼瓦白地製造組合」を組織しています。前者は自社で成型から焼成まで行なう業者、後者は成型までのみ行う業者の組合です。

鬼師の仕事はもちろん鬼瓦や飾り瓦の製作なのですが、そのほかにも神社仏閣に使われている瓦の復元修理という仕事があり、むしろこちらの割合が多くなっています。その中には、重要文化財や国宝建築の修理も。卓越した技術を持つこの地域の鬼師だからこそ携わることのできる、特殊な仕事です。

三州瓦のいま〜柔軟に、新しいものを

洋風住宅の流行、そしてここ数年の景気悪化による建設需要の低下により、瓦の需要は減少を続けているのが現状です。職人や業者の数も、燻し瓦、陶器瓦、鬼瓦とも、急激にではありませんが漸減の傾向にあります。

燻し瓦、陶器瓦の製造元は多くが企業化されていますが、鬼瓦の場合は家族を中心とした小規模経営がほとんど。幸いこの地域の場合、家業として継ぐ者が比較的多いので、急速に絶えるということはありませんが、全体的にはどこの業界でもいわれるように、少なからず後継者問題を抱えています。

家族以外にも職人を抱えている数少ない「鬼屋」のひとつが、従業員数11人と鬼屋の中では規模が大きい山本鬼瓦工業。こちらの最年少は28歳。後継者で専務の山本英輔さんも34歳と、鬼師のなかでは若手の部類に入ります。  山本鬼瓦工業には、これまでも就職を希望する若者が度々訪れていましたが、定着する人は限られていました。「一人前になるまで30年」「技術は見て盗め」といわれるこの世界、厳しい修行に馴染めないことも多いようです。「この仕事に興味のある人は増えている感じはあるんですが、職人としてモノになるタイプがなかなか来てくれないんですよね」山本さんはそう言います。

それでも、瓦産業を次世代につなげてゆくためには、若手の育成は重要な課題。それと同時に、新たに瓦の需要を掘り起こすことも急務といえます。それらに対応する取り組みのひとつは、新しい鬼瓦や飾り瓦の提案です。近年は、ガーデニング用品やインテリア用品の需要が増えており、また、洋風家屋に合う飾り瓦なども作られるようになりました。鬼瓦や飾り瓦は規格品ではなく、施主の注文に応じて作られてきたもの。鬼師は、ニーズに合わせて製品を変化させられる柔軟さを伝統的に持っており、そんな背景が新製品を生みだす土壌となっているのでしょう。山本鬼瓦工業も、新しいものを積極的に導入する社風だといいます。

かわら美術館

もちろん鬼瓦だけでなく、燻し瓦、陶器瓦も含めた三州瓦業界が一体とならなければ、普及や底上げにはつながりません。毎年東京で開催されている「建築・建材展」では、今年から各組合が合同でブースを出展するなど協力態勢を敷きました。行政との連携も必須です。三州瓦の中心地・高浜市では、90年代半ば頃から「やきものの町」を広くPRすべく、さまざまな施策を打っています。平成7年には「高浜市やきものの里かわら美術館」をオープン。瓦ウォッチングが楽しめる公園や散策コースを設置したり、「鬼みちまつり」や「飾り瓦コンクール」などのイベントも定期的に開催しています。ただ、近隣の常滑や瀬戸などと比べると観光名所としての認知度は低く、広報や施設など改善の余地はまだありそうです。

新しいことに挑戦する気風があるいっぽう、「伝統を守りたいという意識も多くの若手職人は持っています」。そう山本さんが話すように、古いものと新しいものが共存する、あるいは融合もするところが、三州瓦の魅力であり、可能性の広がりを感じます。

(寄稿:内藤昌康(まるかど企画) 取材協力:山本鬼瓦工業株式会社)